ニューヨーク(以下NY)には90年代の7年間住んでいた。正に血気盛んな20代の青春時代。当時は人格が尖り過ぎていて、知らない人と口なんて絶対にきかなかったし、触る物を皆傷つけるほど、横暴で凶暴で誰であろうと、変化球無し。とにかくストレートに、はっきりと言動も行動もしてしまった時代で、やんちゃ過ぎるその性格と生き方は、今考えると、ホント酷い嫌なヤツで、あの頃にご迷惑をかけた沢山の人々には、この場を借りて謝罪したい。すいませんでした。でも、それぐらいの強い態度と真っすぐな生き方をしていないと、20代そこそこの日本人が、世界中の鋭く切れがある若者達が集まって、切磋琢磨しながらサバイブしていた、まだ治安もメチャクチャに悪かったNYでは、生きて行けなかったんだよ。と言い訳しておこうw。
DJを始めたのは、そんなNYでの生活まっただ中で、その前は22歳からフリーランスでイラストレーターをしていた。日本では女性ファッション雑誌 ELLE JAPONの星占いページに1年間連載でイラストを描いたり、某スニーカーブランドの広告にも自分の絵が採用されたりして、まだバブルの名残もあったから、自分の絵1枚に結構なギャラが支払われて、正直良い気になっていて、凄く考えが甘かったんだけど、自分は海外でも絵の仕事が出来るじゃないの?って考えていた。でも、いざ住み始めてみてもそこはNY。才能溢れる人々が星のように存在していて、自分の才能の無さに打ちのめされて無理だなって薄々感じていたけど、それでも、諦めないで自分の作品をまとめたブックを持って、何社も広告代理店とか、イラストレーターのエージェンシーに足を運んだりもした。今考えるとかなり無謀な挑戦ながら、それでも NYのコミュニティー雑誌の挿絵の仕事をするチャンスを得て、海外で初めて絵の仕事がもらえた時は、凄く嬉しかった記憶がある。でも、もちろんそれだけでは食べて行けないから、カフェのバスボーイ(ひたすらお客さんの空いたお皿を片付けてウエイターをサポートする仕事)とか、日本食寿司レストランでウエイターとかもやった事がある。バイトは日本で生活していた時も含め、本当に色んな職種をやった。正に “Young Poor Faburous”な時代。
そんな頃、絵の仕事をくれたエージェンシーからモデルの仕事をしないか?とオファーがあって、お金が貰えるのであれば何でも仕事しますよ。と言ってオフィスを訪ねると、そこはオーディションの場。日本でもTakeo Kikuchiの丸井のカタログでモデルの仕事をした事もあったけど、もちろん本気でモデルになろうなんて事は1度も考えた事は無かったし、オーディションを受けるのなんて好きじゃないから、断ってみたけど、まぁそう言わずまず座ってよ的な流れで、知らずと合格していた。仕事だし指定されたフォトスタジオに行くと、どうやらカルバンクラインが日本のカルチャー雑誌 CUTとのタイアップ企画、Portraits of Neo New Yorkers (若い世代のニューヨーカー達のポートレイト)で、当時NYで駆け出しながら注目されているアジア人の若手クリエイターやモデル達が10人くらい選定されていた。これがその時の写真なんだけど、俺とは分からない位、別人だよね。。。180cmで56kgだったから、かなり痩せていて、写真から尖っているギラギラ感が溢れてる。時が経てば人間は随分丸くなるなと実感してるけど、この写真を見ていると、NYでの青春時代の記憶が目まぐるしく蘇ってくる。当時はスマホなんて無いから、今のように、写真を気軽に撮れなくて全然残っていないから、これは青春の1ページと呼ぶに相応しい記念の写真だ。この半年後に、DJを初めて結局今に至るんだけど、この時は自分がDJになるなんて、全く考えても居なければ、それが職業になってご飯を食べているなんて、全く知る由も無かったんだよ。DJを26歳で始めるってかなり遅いから、がむしゃらに必至で打ち込んだけど、人生何が起こって、どんな風に転がって行くかなんて分からない。でも、全てはどれくらいの気持ちを持って自分の人生の目的に挑んでいるかが凄く大事で、自分が進みたい道を真剣に切り開いていかないと、現状は変わらない。考えすぎるよりも、まず行動を起こし、臆病にならないで、本気で自分のやりたい事に向き合って欲しいなと、今の若者達には思う。
最近DJを始めたきっかけは、何ですか?って質問を755で若者達からされるんだけど、話すと長いから、その辺のお話は、NYでの青春ストーリー2につづく。